CHAPPY七区走りまくり


桜並木の土手。菜の花が咲いています。
さあ、走るぞっ。


金甲山が見えます。自転車道・通学路の一本道。
まっすぐ2`。


七区保育園。かわいい声が聞こえてきます。


七区小学校。
校庭で小学生達がマラソンをしていました。


右側は堤防です。
堤防の向こうは児島湖の貯水池。


う〜ん、名前が分からない建物。
この辺りが七区一周の中間点です。


梅が咲いています。暖かいので咲くのが早い。
一週間経つと。
こんなに。


綺麗で〜す。


白梅もあります。


レークサイドパーク。
遊具もあります。
その向こうは倉敷川です。


近づくとこのように。


菜の花、綺麗です。


まだまだ食べられる。白菜。


キンカンもあります。





七区その昔
七区は昔、海でした。だから、干拓地です。
新しい土地にやって来た人たちが一生懸命に今の田や畑を作りました。
千両なす・レンコン・お米などの産地です。

江戸時代
暮らしが苦しく、もっとお米がとれるよい方法はないか?
池田光政という人が大規模な干拓を始めました。

明治のころ
人口が増えてきて、もっと広い田が欲しくなりました。
そこで、県や国が中心になって、土地を増やす計画を立てました。
藤田伝三郎という人がオランダから技師をまねき、念入りに計画を立て、干拓工事を進めました。
昭和のころ
戦争が始まって、食べるものが少なくなったので、国が干拓工事を始めました。
工事は戦争が終わってからも続けられました。
1899年 藤田伝三郎が児島湾の干拓を始める。
1905年 一区ができた。
1912年 二区ができた。
1950年 三・五区ができた。
1955年 六区ができた。
1956年 児島湾の締め切り堤防が完成した。
1963年 七区ができた。
「わたしたちの玉野」より引用しました。

1963年より前だったら、
七区
でのトレーニングは出来なかったんだな。
綺麗な梅の花も見えないかもね。
2004年
でよかった。ありがたやありがたや。


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